では。もう一段分解してみようと思います。
・作業品質
・コミュニケーションの品質
他にもいろいろあるはずですが、ここではコミュニケーションの品質にフォーカスして考えたいと思います。
言葉や表現手段は時代によってどんどん変化します。
表現手段というのは、つまり言葉の選択の仕方や、あるいは、言い回しの枠組みの方法や背景、加えて、コミュニティの文化に強く依存する形式。前者はおそらくセンスが強く作用し、反面、後者はもっと記号的な表し方につながると思います。これらはまったく別のベクトルを持った定義であり、もしかしたら表現という範疇に収まるものではないのかもしれません。実際、そのように捉えるのが自然だと思えます。
これはひとつの妥協です。
2つのベクトルを妥協して捉え、私たちの仕事としての妥協すべきではないポイントをあぶりだそうと思うのが、今回の狙いです。
私たちの仕事には正確性が必要です。それは当たり前のことですし、あるいは、どんな仕事にも共通していえるのが、言い回しの正確さです。
たとえば、りんご がここにあります。
これを正しく表現しましょう。と言えば、おそらく誰しも 「りんごがあります。」と表現すると思います。では、ここにりんごが2個あるとします。どのように答えるでしょうか? 「りんごが2つあります。」
少し冗長であるように思えます。しかし、一応正しく、かつ、認識の祖語が生まれにくい表現に思えます。
では、もし、りんごが6個あった場合はどのように表しますか?
「りんごが6個あります。」
方法としては、さきほどの例と比べて考え方に変化はなく、冗長表現であることに変わりはありません、しかし正確さは保っています。
気を利かした人が「りんごが半ダースあります。」と表した場合はどうでしょうか?
正しい表現でしょうか?認識の祖語が生まれにくい構造と工夫の跡を感じられるでしょうか?
重要なポイントとしては、単位という概念が持ち込まれています。つまり、集合と要素という観点に気付いた点は評価できますが、単位という背景は果たして、発信者と受信者の間で一致した表現の見解として共有されているのでしょうか?
これは、日本語の弱点のように思えます。私たちの言語は合理性よりも情緒の方角に優れているため、まれに、と言うより、頻繁にこの危険性に出くわします。
したがって、事象や物体の表し方には気を使うべきだと思うのです。
今度は、私たちの世界にわかりやすく表してみましょう。
複数のりんごがあります。
List<りんご>
集合と要素の関係を表しています。
では、りんごに個性を与えたときは、どのように変化するでしょうか?
案外、日本語は工夫のし甲斐がある興味深い言語だと思います。
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