「仕事をする」 とは、どういうことなのか?
頼まれたこと、依頼されたこと、あるいは、指示されたことを期限内に正しく収めることなのだろうか?
つい20年前まではこれで良かったのかもしれない。つい20年前の話だ。別の見方をすれば、20年も前の話だ。つまり2つのディケイドと捉えてもよいだろう。20年も前に我々の知らない間に世の中は変わってしまったのだ。
さて、もう一度、考えてみよう。
仕事をするということは、いったいどういうことなのだろうか?
あまりにも漠然としていて捉えどころがないかもしれない。もう少し分析的な観点で見てみよう。
人と人が集まるところには、ある種の慣習が必ず生まれる。それは人と人との接続点の傾斜を和らげ摩擦熱を冷まし、可能な限りスムースに流れるボールベアリングを追い求めるような行為と定義出来るかもしれない。もう少し簡潔に抽象的な言い方をすれば 文化 という表現が適切だろう。我々は極めて抽象的な世界観を醸成しつつ、軟着陸点を探っているかもしれない。
これはある意味、極めて危険的な行為だ。進歩が一度定着してしまえば人は仕事をするだけになってしまうだろう。ここで言う仕事とは慣習をトレースし、日々を少なからず消化してゆく行為のことだ。ずいぶんと逆説的な言い方になってしまうことを許してもらえるならば、仕事を作り出すという行為が退化してしまう、ということにほかならない。
我々は仕事を作りだして初めて、生産的な生き方が出来る、と自身は信じている。
気がついたところには何かしらの改善ポイントが息づいているはずだし、ほんの少し勇気を振り絞ればリファクタリングに怖気づくこともなくなるだろう。したがって、我々は常に仕事を作り出す必要がある。
では、もう一歩、議論の段階を進めてみよう。
仕事を作り出すということは、何なのだろうか?
雇用創出などのスコープを外れて、もっと一般論的な視点でこのことを見つめなおすと、もっといろいろなことが見えてくるのではないかという、切実な希望をもって、これから徐々に掘り下げていくことが出来たら、と自身は思う。
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